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不登校のシステム学。「学校が嫌」はわがままじゃない。フーコー哲学で守る、我が子の素敵な個性

心を整える哲学

​「不登校は、娘が選んだ自由の証」

前回、サルトルの哲学を通して、私は親としての罪悪感を手放し、自分たちの道を選び取る勇気をもらいました。

​でも、心のどこかでずっと消えない「問い」がありました。

​「そもそも、どうして学校という場所は、これほどまでに娘にとって息苦しい場所なのだろう?」

娘は確かに苦しんでいるのに、学校が嫌な理由がはっきりしないのです。

​HSC(人一倍繊細な子)の育児本を開けば、「環境を整えよう」「ペースを尊重しよう」と書かれています。

もちろんそれは大切なことです。

でも、どれだけ工夫しても、学校という場所そのものが持つ「空気感」に娘の心は削られ、私自身も疲れを感じていました。

​私は哲学者、ミシェル・フーコーの言葉を目にしたとき、その「空気感」の正体に触れた気がしました。

​そこで見つけたのは、学校とは「社会に都合のいい人を仕立て上げるための工場のような場所」であるという、驚くべき視点でした。

​もしも今、あなたのお子さんが学校に馴染めず、「理由も分からないのに学校を嫌がる」「自分の育て方が悪かったのかも」と悩んでいるのなら、どうかこの記事を読んでみてください。

娘が学校を嫌がった本当の理由は、彼女の弱さではありません。

学校という「システムの型」に収まりきらない、あまりに素敵で豊かな個性を持っていたからかもしれません。

​今回は、フーコーの哲学とHSCの特性を照らし合わせながら、学校とHSC との関係について考えたいと思います。

悩んでいるあなたの心をそっと救うヒントになったら幸いです。

🔰初めてブログにお越しいただいた方へ

初めての方は、プロフィールもあわせて読んでいただけると、私たちの背景がより伝わりやすいかと思います!

また、前回の記事『不登校の肯定学。不安と葛藤をサルトル哲学で「自由」に変える』をまだ読んでいない方は、こちらもぜひ読んでいただくと、より深く楽しめます。

​🕵️「何が嫌かわからない」という、最も苦しい答え​

​1日わずか1〜3時間の登校。

苦手な授業は辞めて、出席できそうな授業だけを自分で選ぶことにしました。

先生もお友達も優しく、目に見えるトラブルがあるわけではない。

それなのに、娘のみかづきは登校前になると頭痛や吐き気を訴え、玄関で泣き続けました。

​「何がそんなに嫌なの?」

​今まで数えきれないほど質問してきました。

「ガヤガヤした音が嫌?」「チャイムで動くのがしんどい?」……。

でも、みかづきの答えはいつも同じ。

​「そういうのはないけど、よくわかんないけど、学校が嫌。」

​理由がわからないから、対策も立てられません。

私自身も「何が不満なの?」と戸惑い、「みかづきがわがままなのでは?」という考えがよぎってしまう自分に、自己嫌悪。

そんな時、カウンセリングで臨床心理士さんが言った「学校の何が嫌か、強いて言うなら『空気』」という言葉にハッとしました。

​その「空気」の正体こそ、哲学者フーコーが暴いた「規律訓練」という名のシステムだったのです。

​​👁️「評価の視線」に晒されるパノプティコン

​フーコーは、近代の学校を、常に誰かに見られ、評価され、矯正される場所だと定義しました。

HSC(人一倍繊細な子)の育児本には、「観察される、評価される環境では本来の力が発揮できなくなる」とあります。

みかづきの姿がまさにそれでした。

​みかづきは、学校の授業の中でも特に「図工」と「道徳」が嫌いだと言っていました。

学校に通っていた頃にも、図工の時間には、ほぼ毎回のように泣いてしまっていたそうです。

1年生の2学期の終わり頃に担任の先生からそのことを聞いた時、私はびっくりしました。

​みかづきは、もともと絵や文章に対して苦手意識があるようでした。

だからこそ、学校の図工の時間は彼女にとってさらに過酷だったのだと思います。

​「自分の表現は、学校が求める『正解』じゃないかもしれない。間違っていたらどうしよう」

という不安や、

「常に誰かに採点され、周りと比べられている」

という学校特有の『監視の空気』が、無意識に彼女の動きをフリーズさせてしまっていたのかもしれません。

​また、道徳の授業も嫌がっていました。

道徳や国語のように「登場人物の気持ち」を問われるような、答えが一つに限られない自由表記の授業になると、深く悩み込んでしまって全く書けなくなってしまうのです。

担任の先生からも「オープンクエッション(自由な回答を求める質問)に全然答えられないのが少し気になる」と言われたことがありました。

学校というシステムは、自由な表現を求めているようでいて、結局は「分かりやすい言葉や絵」という、システム側が評価しやすい『型』に収まることを要求します。

その目に見えない評価の視線が、みかづきにとっては息苦しくて仕方がなかったのだと気付きました。

​​⌛「深い処理」が「遅れ」にすり替わる理不尽

​HSCの大きな特徴の一つに、「状況を観察し、情報を深く処理してから行動する」というものがあります。

​生活の授業で、あさがおの成長の様子を絵に描くのが苦手だと言っていたみかづきに、私が「葉っぱとかいつも同じ感じで描けば楽なんじゃない?」と言ったことがありました。

するとみかづきはこう返してきたのです。

「この前の授業で観察したときと比べて、いっぱい変わったところがあるよ。色とか、大きさとか……」

​彼女は、あさがおの微細な変化を深く感じ取っていました。

だからこそ、いつも同じようにササッと描くことなんてできなかったのです。

でも、そうやって真剣に観察していると、どうしても時間が足りなくなってしまい、絵が描ききれなくて困る、とこぼしていました。

​本来なら、その深い洞察力や、変化を見逃さない丁寧なこだわりは「素晴らしい才能」です。

しかし、学校という場所はフーコーによると、全員を同じペースで動かす「効率」を最優先するシステム。

そこは、みかづきのようにじっくり時間をかけたい子にとっては、周りに合わせられなくて窮屈に感じてしまう環境になっていました。

学校側からすれば、悪気はなくても、単に「時間内に終わらない困った遅れ」として捉えかねない構造があります。

自分の強みが、その場所ではまるで「適応できない証拠」になってしまうような、そんな矛盾だらけの空気が、どれほどみかづきを傷つけていたことでしょうか。

​​🚨身体が叫ぶ「拒絶」のサインと、溢れ出る葛藤

​フーコーは、システムが身体に無理を強いるとき、人は「従順になるか」さもなくば「拒絶を示すか」のどちらかだと説きました。

​みかづきが学習発表会の練習をひどく嫌がり、本番を欠席したのもその拒絶の一つでした。

​当時、みかづきは「みんなの前で話すのは苦手」と言っていました。

親としては、例えば照明や音声といった、みんなの後ろから支える「裏方の仕事」を選択することはできないのだろうか、と考えました。

みかづきの学校の先生方は、幸いにも優しい方ばかりだと感じていました。

それなのに、私はその相談をすることさえ躊躇してしまったのです。

原因は、私自身の過去の経験にありました。

​かつて働いていた職場で、私は周りを批判したわけではなく、ただ良かれと思って「提案」をしただけなのに、

「輪を乱している」「協調性がない」という捉え方をされたことがあったのです。

その時の傷があるからこそ、私は社会の『なんとなくの構造』を身に染みて分かっていました。

学校という組織に対して何かを言うことも、同じように「わがままな逸脱者」として捉えられてしまうのではないかと、怖くてたまらなかったのです。

​結局、先生には相談できませんでした。

そして、どうして皆が同じように、同じステージで、同じことができなければいけないのだろう、と激しい葛藤を抱えていました。

👥「みんなと同じ」を求められる息苦しさ

学習発表会に限らず、

みかづきはあさがおの観察でも、時間がいくらあったとしても自分が感じたものを絵にすることができないこと、

道徳や国語の授業でも、自分の考えを言葉にできないことに苦しんでいました。

​みかづきは、その場で何かを一生懸命に感じたり、自分なりに考えたりしているのだと思います。

ただ、それを学校が求めるような「絵」や「言葉」という形にして、外に器用に表現することが苦手なのだろう、と思います。

学校というシステムでは、「目に見える成果物」を出すことができないみかづきの心の中の動きは見落とされてしまいます。

​🏛️哲学者フーコーの視点
フーコーは、近代の学校や工場などのシステムは、人間を社会にとって扱いやすく、従順で役に立つ「歯車」のように仕立て上げるための場所だと見抜いていました。
社会のシステムが求めているのは、一分一秒の規律を正しく守り、全員が同じペースで均一な成果を出せる効率的な労働者です。
学校とは、まさにその社会の型に子どもたちをはめ込むための「工場」のような役割を持っています。
そして、社会の規範に従順に従う人が「正常」、それに適応できない人は「逸脱」とみなされ、しばしば社会の周縁へと追いやられてしまいます。

​社会が一律の型を求めるからこそ、みかづきのような豊かな個性はそこからはみ出してしまうのだと、フーコーの言葉に触れて実感しました。

同時に、この社会の一律の型にはめ込まれて苦しんでいたのは、他でもない私自身であったのかもしれません。

みかづきが学校に行けなくなってきた頃、学校の先生方はとても優しく、責めるようなことは一度も言われませんでした。

それなのに、私の頭の中では、

「『頑張れば本当は来られるんじゃないの?』と思われているかも」

「『母親の甘やかしが原因だ』と後ろ指をさされているかもしれない」

そんな不安がずっとぐるぐると渦巻いていたのです。

でもある時、ふと気付きました。

先生方は一度もそんなことを言っていないし、思ってもいないかもしれない。

私は一体何に苦しんでいるのだろう、と。

思い返せば、みかづきが保育園に通っていた頃、保育士さんが登園渋りをしていたみかづきに向かって少しキツイ口調で言った言葉が、頭の片隅にずっと残っていました。

「保育園に来るのと来ないの、どっちが良いことだと思う?」

あの時の光景はショックで、今でも鮮明に思い出されます。

でも、私が苦しんでいた理由はそれだけではなかったのです。

よく考えてみれば、私はこれまでの人生の中で、無意識のうちに自分自身を目に見えない型に、はめ込んできたのだと思います。

「学校(保育園)に行くのが正しいことで、行かないのは悪いこと」

「みんなと同じようにできるのが正しい」

そんな社会の固定観念が、知らず知らずのうちに私の中に根付き、自分で自分を監視して責め立てる「見えない目」になっていたのかもしれません。

そのことに気づいたとき、私はありのままのみかづきを見つめ直して、ふと思ったことがあります。

上手な絵が描けなくても、素晴らしい言葉が浮かばなくても、みかづきは心の中で豊かに世界を感じ取っている。

その時間自体に、十分な価値があるのではないかと思ってしまうのです。

​苦手な授業になると固まってしまい、返答できなくなっていたみかづきの姿、そして毎朝の体調不良。

これらは決して「わがまま」ではありません。

「自分の気質に合わない型」に自分を無理やり押し込めようとし続けた結果、心が壊れないように身体が必死に出していた「防衛反応」だったのです。

​そして、学校に適応できないのは、娘が弱いからでも、私の育て方のせいでもありません。

ただ、「あまりに豊かな感受性が、システムの枠からはみ出していただけ」だったのです。

📝 「私」の気付き:答えは最初から、そこにあった

​これまでの私は、「何がそんなに嫌なの?」という問いかけに対して、みかづきが返す「学校が嫌」という言葉は、答えになっていないと思っていました。

みかづきが勇気を出して伝えてくれていた精一杯の答えに、私は「それでは納得できない」という反応を何度も返してしまいました。

​でも、フーコーの哲学を知り、学校というシステムの構造を理解した今、ようやく気づきました。

​「学校が嫌」という言葉は、立派な、そして十分すぎるほどの理由だったんです。

​みかづきが嫌がっていたのは、特定の何かではありませんでした。

自分という個性を奪い、型にはめようとする学校という「空気」そのもの、その「システム」そのものを嫌がっていたのです。

​理由がわからないからと何度も問い詰め、追い込んでしまってごめんね。

みかづきは最初から、自分の心に一番正直な答えを、私に一生懸命伝えてくれていたんだね。

🤝おわりに:システムの「外側」で、自分だけの物語を紡ごう

​「学校が嫌」という言葉の裏にあった、目に見えない息苦しさ。

その正体が「個性を型にはめるシステム」だったと気づいたとき、ひとつの確信が生まれました。

それは、学校という枠に収まりきらなかったみかづきの感性は、決して「弱さ」ではなく、これからの時代を自由に生きていくための「宝物」なのだということです。

​もちろん、これからも世間の視線や「普通」という言葉に、心が揺れる日はあると思います。

でも、フーコーの視点を知った今の私には、守りたいものが少しずつ見えてきました。

​それは、学校の通知表や評価には現れない、娘が家で見せてくれる何気ない笑顔や、彼女が今好きなことを楽しそうに語る瞬間の、生き生きとした姿です。

​​みかづきの学校の先生方は優しかったですし、学校側を批判したいわけではありません。

それに、学校に行かない選択をしたからといって、すべてが解決したわけでもありません。

親としての毎日の付き添いやこれからの不安など、ここから始まる新しい苦労や葛藤も、正直たくさんあります。

​だからこそ、今は焦って学校に戻そうとするのではなく、みかづきの今の気持ちとペースに合わせて、しばらくは家で過ごす「完全不登校」の形をじっくり続けていくつもりです。

​学校に行かない時間を、みかづきが家でどんなふうに過ごし、どんなことに心をときめかせているのか。

そして、私たちがこれからどんな壁にぶつかり、どうやって乗り越えていくのかについては、またこれからの記事で少しずつお話ししていけたらいいなと思っています。

​システムの「内側」でうまくやることばかりを考えて、親子で擦り切れていた毎日は、もうお終わり。

​正解のない道を、これからもたくさん迷い、悩みながら、それでも娘と並んで、私たちのペースで一歩ずつ歩いていこうと思います。

今回のフーコーの視点と同じように、「学校に行かなければならない」という思い込みから心を自由にしてくれる、サルトル哲学の考え方もこちらの記事でまとめています。

不登校の肯定学。親の不安と葛藤をサルトル哲学で「自由」に変える
子どもの「学校に行きたくない」を尊重したいけれど、これは甘やかし?どう接したらいい?と迷っていませんか?サルトル哲学を通して、「自分たちらしい選択」をここから始めていくための考え方をお届けします。

📚参考文献

『HSCの子育てハッピーアドバイス』 (明橋大二 氏)

日本におけるHSC(ひといちばい敏感な子)の第一人者である著者が、繊細な子どもたちの心の内を優しく解説してくれる一冊です。我が子の「敏感さ」はとても素敵な個性なんだと、心が温かくなります。


『HSCを守りたい』 (斎藤暁子 氏)

​HSCや不登校の知識から、母親たちのリアルな体験談、将来役立つ社会資源まで幅広く網羅された一冊です。「自分たちらしい選択」を後押ししてくれます。

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​③『超訳哲学者図鑑』  (富増章成 氏)

難しい哲学が、驚くほどスッと頭に入ってきます。今回の記事でご紹介したフーコーをはじめ、サルトルやニーチェなど、世界の偉大な哲学者たちの思想を分かりやすく「超訳」で解説してくれるコンパクトな図鑑です。

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④『哲学は人生の道しるべ』 (小川仁志 氏)

今回ご紹介したフーコーの思想をはじめ、現代を生きる私たちの「生きづらさ」を解きほぐすヒントが詰まった一冊です。息苦しさを感じたとき、心をふっと軽くしてくれる言葉に出会えます。


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