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不登校の肯定学。親の不安と葛藤をサルトル哲学で「自由」に変える

心を整える哲学

本当は、子どもの「学校に行きたくない」を尊重してあげたい。

でも、これは甘やかし?厳しくするべき?

と迷っていませんか?

​私は毎朝、泣きじゃくる娘を無理やり車に乗せて、

涙をこらえながら、自分を責め続けていました。

​HSC(人一倍繊細な子)の娘を育てる中で直面した、終わりの見えない登園拒否と不登校。

「学校に行きたくない」と言う娘を前に、どう接するのが正解なのか……。

そんな迷いの中にいた私を救ってくれたのは、ある哲学者の言葉でした。

​この記事では、私の経験とともに、サルトル哲学の視点を通して、

親としての不安や葛藤から「一歩踏み出す」ヒントをまとめました。

​今、玄関先で立ち尽くし、悩んでいるあなたへ。

この記事が、あなたの心を少しだけ軽くするきっかけになれば幸いです。

​※この記事は、娘が週3日登校をしていた時期に、保育園の頃からの葛藤を綴ったものです。現在は毎日欠席という形に変わっていますが、不登校という現実に立ち向かうための「私の原点」として、当時の想いをそのまま公開します。

娘の保育園時代の登園拒否から、入学後の週3日登校を経て現在の完全不登校に至るまでの詳しいストーリーは、こちらの『自己紹介ページ』にまとめています。あわせて読んでもらえると、今回の記事がより深く伝わると思います。

😔学校に行きたくないと、玄関先で泣く日々

​娘のみかづきが保育園の年長さんだった夏、登園拒否が始まりました。

朝、玄関で大泣きするみかづきと向かい合って、どうしたら良いのかこちらも頭を抱える。

これが毎朝のルーティンになっていました。

しかし、当時の私はまだ仕事をしていたため、

「職場に迷惑をかけられない」と考え、みかづきをなかば強引に抱えて車に乗せていました。

​娘を園に預けた後、職場へ向かう車の中で、私は溢れそうになる涙を必死にこらえていました。

「これで本当にいいのかな?」

「私は何のために働いているの?」

そんな問いが、頭の中をぐるぐると回って離れませんでした。

​そして、私自身も適応障害になり、仕事を辞めることになりました。

その後、時間はあっても「正解」が見えず、私の心は揺れ続けました。

​⏳ 尊重?甘やかし?親としての接し方に悩む日々

​ある朝のことは、今でも忘れられません。

登園準備を済ませて玄関まで来たとき、

保育園に行きたくない理由を、みかづきがポツリポツリと話し始めました。

​「給食で苦手なものが出てくる」

「お友達に急におもちゃを取り上げられた」

​大人から見れば、小さな出来事かもしれません。でも、感受性の強いみかづきにとっては、大きな恐怖だったのだと思います。

みかづきはそのまま玄関に座り込んで、そこから動けなくなりました。

結局、朝の9時から11時まで、私たちはその場で話し続けました。

​みかづきの心に寄り添いたい。

でも、甘やかしたら、この先ずっと行けなくなるんじゃないか……先生も待っているのに……。

2時間向き合っても答えは出ず、ただただ疲れ果てていく毎日でした。

​💔「無理に来ることが、そんなにいいことなの?」

​それでも、「行かせなきゃ」という思いに突き動かされていた私は、また無理やりみかづきを車に乗せました。

​保育園の駐車場に着いても、みかづきは車の座席シートに必死にしがみついて離れません。

泣き叫び、抵抗するみかづきを、私はなかば力ずくで引き剥がすようにして抱きかかえ、園舎へと運びました。

時には、私1人ではどうにもならず、駐車場まで先生に迎えに来てもらうこともありました。

​そうして、ボロボロになりながらようやく登園したときのことです。

先生が、泣きじゃくるみかづきの顔をのぞき込み、

​「保育園に来るのと来ないの、どっちがいいことなの?」

と、強い口調で尋ねました。

​その言葉を聞いた瞬間、私の心にモヤモヤが広がりました。

必死の思いでここまで連れてきたことを、ただ褒めてほしかった。

無理に園に来ることが、そんなに「いいこと」なのだろうか?

​みかづきを送り届けたあと、私は一人きりの家で泣きました。

静まり返った家の中で、みかづきへの申し訳なさと情けなさで胸がいっぱいになったのを覚えています。

​やがてみかづきは、朝出発の時間になると、頭痛、腹痛、吐き気を訴えるようになりました。

床に倒れ込んで脱力し、もう起き上がらせることすらできない状態。

そんな中で、みかづきが絞り出した

​「本当に無理なのになんでママは分かってくれないの。」

​という言葉で、私はようやく「無理に行かせること」を手放す決心がつきました。

​🧭 現在の私たち:「新しい登校のカタチ」と消えない葛藤

​小学1年生になった今、みかづきは臨床心理士さんと相談しながら、自分なりのペースで学校と向き合っています。

  • ​週に3日ほど、1日1〜2時間だけ登校するスタイル
  • ​国語や算数など、自分が受けやすい授業だけを選ぶ
  • ​苦手な給食や図工などの時間は無理をしない。行かなくていい。

​今の私たちなりの「正解」を見つけたつもりです。

でも、私の心は今でも小さなことで揺れ動きます。

保育園の頃と比べて表情が穏やかになったみかづきが、​ふざけながら「今日学校休みた〜い」と言う姿を見て、

「ここは厳しくした方がいいの?」

「やっぱり甘やかしているだけ?」

と、心の葛藤は消えません。

少し口調を強めてみると、泣き出すみかづきを見て後悔する……

そんな毎日を繰り返しています。

​この「甘やかし」と「尊重」の狭間で揺れる苦しさ。

これこそが、サルトルが言った「人間は自由の刑に処せられている」という言葉の意味なのかもしれません。

なぜ「選ぶこと」はこんなに苦しいのか?

​💡「本質(目的)がない」からこそ、私たちは自由

​サルトルの言葉に、「実存は本質に先立つ」という有名な言葉があります。

少し難しいですが、私はこの言葉に救いを感じました。

​たとえば「ハサミ」は、切るという目的(本質)を持って作られます。

もしハサミが全く切れなくなったら、それはハサミとしての価値を失ったことになります。

​でも、人間は違います。

私たちは、何の目的も、決まった役割も持たずに、ただこの世に放り出された存在(実存)なんです。

​今の社会では、「学校へ行くこと」「職場で適応すること」が、まるで人間の正解(本質)であるかのように思われがちです。

それができない自分や娘は、「人間としての役割を果たせていない、欠陥品なんじゃないか……」。

そんな風に自分たちを追い詰めていたことに気づきました。

​サルトルは教えてくれました。

「人間には最初から決まった目的(本質)なんてない。だから、後から自分で自分を定義していくしかないんだ」と。

​学校に行けないことも、仕事を辞めたことも、私たちの価値を損なうものではなかったのです。

​🎭「社会の正解」というお面を脱ぎ捨てる

​では、あの時の先生の言葉はどう考えればいいのでしょうか。

「保育園に来るのと来ないの、どっちがいいことなの?」

​サルトルなら、きっとこう言います。

「どちらが『いいこと』かなんて、最初から決まっているわけじゃない」

​「学校に行くのが正しい」というのは、社会が作った一つの価値観にすぎません。

私たちが苦しかったのは、「社会が決めた正解」に従わなければならないと思い込み、自分の本当の気持ちに蓋をしようとしていたからではないでしょうか。

​サルトルはこれを「自己欺瞞(じこぎまん)」――自分に嘘をつくこと、と呼びました。

「普通はこうするから」「みんなそうしているから」という言葉で、自分の「選びたい道」から目を逸らすことです。

それをやめたとき、本当の意味で自分たちの人生を選び取ることができるようになります。

​​⚖️ 「自由」という重い荷物を背負って生きる

​ただ、サルトルの言う「自由」は、決して楽なものではありません。

彼はこんな厳しい言葉も残しています。

「人間は自由の刑に処せられている」

「自由」には、自分の選んだ結果を引き受けるという「責任」が伴います。

だからこそ、選ぶことは「刑罰」のように重く、苦しいのです。

​​サルトルは、自分の選択は自分一人で完結するものではなく、

「他者の自由や存在に対しても責任を持たなければならない」と考えました。

自分の振る舞い一つが、他者に影響を与えるものだからです。

​親子という密接な関係であれば、その影響はなおさら強く出ると思います。

「私が学校に行かせると決めるか、休ませると決めるか。その選択の積み重ねが、この子の人生を形作ってしまう……」

そう考えると、親としての責任は一層重く感じられました。

私がボロボロになるまで悩んだのは、この「娘の人生に対する責任」を、自分の自由な選択として背負い込んでいたからだったのです。

​🤝「自分」と「娘」の自由を、ともに尊重するために

​今、私が大切にしたいと思っているのは、「自分とみかづき、両方の自由を尊重しながら問い続ける姿勢」です。

​「学校へ行くべき」という社会のルールに従うのではなく、

かといって「親の私がすべてを決める」のでもない。

お互いの自由を認め合いながら、その時々の『正解』を二人で探し、選び取っていくこと。

​正解がないからこそ、問い続ける。

その姿勢こそが、サルトルの言う「誠実さ」であり、重すぎる責任を「愛」へと変えていく唯一の方法なのではないかと信じています。

そうすることで、私は、みかづきが必死に自分の人生を選び取ろうとしている「自由」な姿に気付きました。

​🌱「不登校」は、娘が選んだ「自由」の証

​​みかづきが「学校に行きたくない」と主張したこと。

それは「逃げ」でも「わがまま」でもなく、

彼女が「今の私にとって、この場所は無理だ」と、

自分の人生を自分で選び取った「自由な決断」だったのです。

ただ、みかづきはまだ小学1年生。

自分の人生をすべて自分で選び、その重い責任を一人で背負うには、まだ幼すぎます。

​だからこそ、今の「無理のないペースで学校に通う」という選択が、

今の私たちにとっての「正解」なのだと思っています。

無理をさせて心を壊すのではなく、

彼女が自分自身で「これからの道」をしっかり選べるようになるまで、

今は心にエネルギーを貯める時期。

​そうやって「世間の正解」という重荷を一度下ろしてみたら、私の心には、驚くほどすっぽりと「余裕」が生まれました。

​✨ 宇宙、地理、ワクワク……「白紙」を自分の色で塗っていく

​エネルギーを「学校に合わせること」に使い果たすのをやめたら、それまで見えていなかったみかづきのキラキラした姿に意識を向けられるようになりました。

​最近のみかづきは、宇宙や地理にワクワクしています。

小学1年生では習わないような専門的な内容も、一緒に本で調べたり、アプリやおもちゃを使って楽しんでいます。

​一方では、彼女はNintendo Switchも大好きで、毎日たくさんゲームをしています。

​「人間には決まった本質(目的)なんてない。だから、後から自分で自分を定義していくしかない」

​サルトルのこの言葉を借りれば、

みかづきは今、学校という決められた型に自分をはめるのをやめ、

自分のペースでやりたいことを見つけ、新しい自分を自らの手で作り上げている最中なのだと思います。

​実は、この記事を書いてから状況が少し変わり、現在は毎日欠席という形を選んでいます。

でも、それもまた、彼女が「今の自分に一番必要なのは休息」と自ら選び取った結果なのだと、今の私は信じています。

​もし、私がずっと「学校に行くこと」を強制し続けていたら、

みかづきの心は「どうやって拒絶するか」「どうやって自分を守るか」だけで、パンパンに埋まっていたかもしれません。

​強制されないことで、みかづきの心にもようやく『余裕(余白)』ができたのではないか。

​だからこそ彼女は、自分の内側にある「これが好き」「これを知りたい」という純粋な興味の種を、自分の力で見つけることができたのだと思います。

そんなみかづきのワクワクした表情を見ていると、「自分で選ぶこと」の先には、彩り豊かな世界が待っているんだと確信できるのです。

​親である私の今の責任は、みかづきを「社会の正解」に押し込むことではありません。

みかづきが「自分は自分のままでいいんだ」と胸を張って道を選び取れるようになるまで、一番の味方として隣に居続けること。

それこそが、私が見つけた新しい「親としての責任」なのだと、今なら強く思えます。

​⚠️選択の基準:それは「安全」な場所かどうか

​ここで一つ、私が大切にしている「選択の基準」についても触れておきたいと思います。

​今の私たちが「無理のないペースで登校する」という道を選んでいるのは、

みかづきがいじめを受けていたり、先生やお友達との関係に深刻な問題を抱えているわけではない、と感じているからです。

​もしも、いじめなどの明確な攻撃があったり、本人の尊厳が脅かされるような状況であれば、

私の「親としての責任」は迷わず『学校に一切行かせないこと』になります。

 サルトルのいう自由とは、投げ出された状況の中で、どう動くかを決めることです。

今の娘の状況は、「学校というシステムそのもの」や「給食などの刺激」に疲れてしまうというもの。

だからこそ、「すべてを遮断する」のではなく「ちょうどいい距離感を探る」という選択肢を、私たちは今、自分たちの意志で選んでいます。

🏁おわりに:正解のない道を、娘と一緒に歩む覚悟

​今振り返れば、私が一番苦しかったのは、

みかづきが学校に行けないことそのものではなく、

「普通はこうすべき」という見えない正解に自分を無理やり当てはめようとしていたことでした。

​サルトルの哲学は、私に教えてくれました。

「自分の価値を決める台本なんて、どこにもない」と。

​もちろん、今でも朝、娘が「休みた〜い」とふざける姿を見て、「これでいいのかな」と心がザワつく日はあります。

親として、全く迷わなくなることなんて、きっと一生ないのかもしれません。

​でも、今の私には哲学というブレない軸があります。

​「甘やかしているんじゃないか」と不安になったときは、

「いや、これは私たちが自分たちの意志で選んだ、積極的なお休みなんだ」と捉え直す。

少し口調を強めて後悔したときは、

「失敗したことも含めて、また次の選択を積み重ねていけばいい」と自分を許す。

​そうやって、正解のない「自由」という重荷を背負いながら、一歩ずつ進んでいくこと。

「社会が決めた正解」を押し付ける親ではなく、

みかづきが自分なりの人生を選び取れるようになるまで、隣でその重みを分かち合う親でありたい。

それが、今の私が見つけた、私なりの「生きる姿勢」です。

​もし今、玄関先で、あるいは車の中で、かつての私のように涙をこらえている方がいたら、どうか自分を責めないでください。

あなたは決して「役割」を果たせていないわけではありません。

ただ、自分たちの手で「新しい生き方」を創り出そうとしている、とても自由で、勇敢な過程にいるだけなのだと思います。

​🧭次回予告:学校という場所の「正解」を疑ってみる

​今回はサルトルの視点から「親の心の持ちよう」を考えてきました。

でも、そもそもなぜ私たちは、これほどまでに「学校に行くのが当たり前」という価値観に縛られ、追い詰められてしまうのでしょうか?

​次回は、哲学者・フーコーの視点を借りて、「学校という場所の正体」について深掘りしてみたいと思います。

「娘が馴染めない理由」を、個人の問題だけではなく、社会の仕組みからも考えていきます。


📚参考文献

​① 「超訳哲学者図鑑」 (富増章成 氏)

​「図鑑形式でサルトルの考えが短くまとめられているので、忙しい育児の合間でも直感的に理解を深めることができました。まずは全体像を知りたい方におすすめです。その他にもたくさんの哲学者の思想を楽しく学ぶことができます。」

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​② 「希望と自由の哲学 サルトル 実存主義とは何か」 (海老坂武 氏)

「サルトルの思想をより深く感じたくて手に取った本です。正直私には少し難しい部分もありましたが、読み進めるうちに『自由であることの希望』をじわじわと感じました。サルトルの思想に興味を持った方におすすめします。」


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